能面次元 -随想- 中村光江


「型」ふたたび

-2014.06.03-

 近頃、趣味として能面を制作する人たちが増えています。全国を総べる数はわかりませんが、制作人口が増えればそれだけ大量の能面が作られてゆきます。喜ばしいことと思う一方で、量によって失われる質を危ぶむ気持ちがふつふつと湧いてくるのです。
 造形の世界は言葉で学ぶものではなく、そのものを見て学んだり美意識を養ってゆくものです。すなわち目の前に見る能面がすべてなのです。

 他のモノを見て能面を学ぶことはできません。

 もし目の前にお手本とすべきすぐれた能面がなければ、例え何十年作り続けようとついに本質には行き着かないという残念なことが起こります。その、本質に至らない面たちが残ってさらに次の代の人たちに受け継がれると、やがてはほんものを見極める目も美意識も失われてゆくのではないかと思うのです。
 一例をお目にかけましょう。

(写真:天知輝夫写真集「能面風姿ーのうめんふうしー」より。)

 写真は「尉」の面です。仰向ければ上を見、俯ければ下を見ます。あたりまえのことと思われるでしょうか。いいえ、これはふつうのことではありません。たいしたことなのです。もし能面が人の顔と同じように作ってあったら、決してこのように変化はしません。試しに上の面のように上を見て下さい。そしてそのまま目を動かさずに俯いてみて下さい。いくら首を傾けても、目は決して下を見ることは出来ないでしょう。
 つまり能面は目が動くのです。
 もう少し細かく言うと、面を上向ければその角度より少しだけさらに上を見、下向ければその角度より少しだけさらに下を見るのです。ちょうど人がモノを見るときの首と目の動きとぴたりと重なるのです。

 

「型」ふたたび - 2

-2014.08.23-

「型」ふたたび - 2
 金剛巌氏が「人が見るのではない。面が見るのである」と言ったのは、雪の小面の造形のすばらしさを説明する文章の中でした。

 「その面が見るべきところに視線がまちがいなくついてゆく」。

 これはもう何百年も前に能面の作者がたどりついた、すばらしい工夫なのです。

 世界の仮面の中でも類がない、能面の誇るべき造形なのです。

 しかしながらすべての能面がそのように作られているわけではありません。鬼神の類や初期の頃の造形や、微妙な変化を必要としないものなど、例外はたくさんあります。
また、微妙な女面の彫りには作者の技量が要ります。
女面だからといって、すべての面が変化する訳ではないのです。

 だからこそ金剛さんは雪の小面を自慢し、多くの人々が雪の小面の写しを求めたのでしょう。

 筆者は堀安右衛門先生にこの彫り方を教わった時、鏡に面を映して動かしながら一夜あかずながめていたものです。深い感動の時でした。

(中村光江作「小面」)

 しかるに現在、この技法がどれほど認識されているかというと、実はたいそう心もとないのです。 研究はすでに昭和の初めに西田正秋氏によってなされ、これ以上はないような詳しい論文が発表されています。口元の工夫についても詳しく解き明かされています。言葉のみでは学べないとはいえ、決して秘すべき技法などではありません。にもかかわらず、今能面を作っている大勢の人たちにその認識はありません。教える側にそもそもの認識がないのではないかと思われるのです。

 「照らす曇らす」がイコール「喜びと憂い」であるという説明が定着し、まなざしもその表現の中に吸収されてしまっています。

 つまり、まなざしの変化が見損なわれているのです。

「つづく」

 

「型」ふたたび - 3

-2014.10.15-

非常に微細な世界ではありますが、表情を表すのはあくまでも表情筋です。目は視るためにあります。

 U字型の口、という言い方が小面の造形を誤解させます。口の端をくいと上げた面がおびただしく作られてゆきます。

 「左右不対象で動きのある面」という言い方に惑わされてはいけません。世界の仮面群の中では、能面は非常に端正で対称性の強いものです。ただ、寸分の狂いもなく左右対称に作ろうとする”派”に対して、そうではないと中村保雄さんが主張されたのが始めではなかったかと思います。

 能役者の方々は造形の専門ではありませんから、感覚的に「目が利く」というふうな理解でよいのかもしれません。ただ能面のほんとうのすばらしさを守り伝えるために、もう一歩理解を深めていただきたいと思います。 
 古面、新面を問わず玉石混淆の中から、すぐれた面を見分けるのは演者の役目です。今のままではほんのひとにぎりの識者以外は見る目が養われず、圧倒的多数の動かぬ目の面が作られて能楽界にはいってくる中で、ほんものが見失われてしまうのはないかと思うのです。

 

 


「 型 」

-2012.11.12-

「芸術家が創造し、職人がそれを完成させる」

長年、能面を作っていて、こういう思いに至りました。

ある時すぐれた才能を与えられた人が、すばらしい面を創り出します。
後年すぐれた腕を持った職人が、それを写します。
その時、微妙に洗練と選択がほどこされて、能面としての「型」が出来上がるのです。

写すという作業によって完成された[型」はそれゆえ、内に生命力の弱さを含みます。

すぐれた才能によって創り出されたものには、自由闊達な精神が宿っていますが、
それを写したものに隅々まではりめぐらされているのは(すぐれた写しであればあるほど)
精神ではなく、細やかな神経なのです。

様式の完成は同時に、衰退への一歩なのではないでしょうか。

 


「 技2 」

-2008.6.25-

 くちびるは湾曲の度合いが強いのです。
 つまり奥行きが深いので、正面からは小さく
見える口が,少し動くと大きく見えます。
 あえかに開いた口と、後ろへしっかり引いた
口が、合体しているようです。
 能面の目と口は、動きを内包した形だと
いえます。
 このように異形なものが、なぜ美しく上品に
見えるのか、不思議な気がします。
 しかし、変形(デフォルメ)してなお品格のある美しさ
を持ち得たこと、それが能面の最も優れた
特質であると私は思います。

 


「 技 」

-2008.3.10-

この「万媚」の目は、横から見ると伏目ですが、正面から見ると、正面を向いています。 」

 この造形が、微妙ながら大きな効果を生みます。

 面をわずかに傾けただけで、目が下を見るのです。

 人は手元を見る時、首を傾け、目を伏せます。面はまさに、そのように動くのです。

切れ長の目の下の線が、少し傾けただけで目を伏せた形になります。
逆に少し仰向けただけで、目の下の線はなだらかな山線になります。

つまりこの万媚の造形は、正面を見る目と下を見る目が「合体」した彫り方なのです。この「動きを内包した造形」こそが、能面に隠された最も大切な彫技だと思います。

 


「 はぐくむ 」

-2007.7.15-

能面の繊細さは、生命力の弱さにつながるのでしょうか。
四季に恵まれた温暖な気候の郷土が、
そこに暮らす人々の性格を形作ってゆくものなら、
まさに能面は、この国土が産み出したものです。
移り変わる季節を愛し、
自然に身をゆだね、
自然に調和した生活があったのだと思います。

彼方は、荒々しい自然と闘い、勝ちとる生命であり、
此方は,自然と共存する、親和的な生命だといえるのかもしれません。

 


「 つなぐ 」

-2006.10.5-

能面は 六百年に亘る歴史を持ちますが,
六百年を経て今に完成したのではありません。
六百年前には完成していたのです。
成立の謎は、われわれを推理の迷路へ誘います。
写真集をめくり、粗野な民俗面の次に
突然,現在の舞台で使われている『完成』した能面に出会うと,
思わず賛嘆の声をあげてしまいます。
はたして、この落差をつなぐミッシングリングはみつかるのでしょうか。
しかしまた、おもしろいことに、作り手である者は、
あれからこれへのジャンプが、ひとりの人間において起こり得るということも 知っているのです。

 


「 比べる 」

-2006.4.1-

仮面はそれぞれの民族の特徴を端的に物語ります。
外形だけでなく、精神的な内面をも。
外国の、あふれんばかりにエネルギッシュな仮面群に比べ、
能面は非常に繊細です。
そして品格をだいじにします。
あからさまであることを厭い、
つつみ隠す美しさに凝縮してゆきます。
その奥床しさを感じとれなくなった時、
現代の日本人は、もはや能面にとって異邦人であるかもしれません。

 


「 動く 」

-2005.10.1-

能面の表情は変化します。

微妙に、時に 激しく、
光と角度によって、
演者の所作によって、
そして 隠された彫刻の技によって。

柔らかい表情の女面などは、わずかな傾きによって、微妙な変化を見せます。仰向けての微笑み、うつぶせての憂い、はよくいわれますが、それだけでは ありません。舞台には物語があり、演者がいます。女の面が 時には怒り、あるいは賢しげに、ある時は茫洋と遠くを見ます。能面という造形の中に、その変化の秘密が隠されているのです。

強い表情の面は、光と角度によって 激しく変化します。

橋がかりを歩む 陰うつな女の化身、
嫉妬の鬼となって 夫の枕元に立つ時、
恋がたきを打ちすえる思いの高ぶりが極まった時、
それぞれの場面が、この三様の橋姫の変化によって 想像できるでしょうか。

能面写真/三様の橋姫